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宮司が最近思ったことや
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駅伝、タスキの発案者・武田千代三郎

いよいよ駅伝の時期を迎えました。
11月7日には、名古屋の熱田神宮から伊勢神宮迄の100㎞を超える全国大学駅伝選手権が行われ、駒沢大学が優勝しました。


全27チームの中に、皇學館大学という三重県の地方大学が出場していました。駅伝コースの最終区間では、この皇學館大学の正門前の御幸道路で激走が展開されるのです。6年前迄は、同大学の学生達は正門前を駆け抜ける名門大学のランナーをよそ目に、当てもなく応援していました。


しかし同大學に10数年前に駅伝競走部ができ、5年前から東海地区代表として全国大學駅伝出場を果たしたのです。なんと吾が大學の前を、「皇學館」とした紫色の襷(タスキ)が駆け抜けました。この大學の念願でした。
実は「駅伝」という名前は、この皇學館大学の戦前の館長(学長)、武田千代三郎という人物が名付けのです。大正6年に東京遷都50年を記念して、京都-東京間の徒歩競争が行われます。その際に「徒歩競争」に替えて、武田は「駅伝」と命名しました。


古い時代には、駅に留め置いた馬を乗り継いで、都からの伝令が地方に伝えられました。武田はこの駅馬制をヒントに、「駅伝」と名付けたのです。


武田館長にはもう一つの功績があります。この「駅伝」が生まれる前、三重県内では三重高等農林(三重大農学部)と神宮皇學館(皇學館大学)とで、徒歩競争が行われていました。そのときのバトンは、両校の特色を出して、農業系の三重高等農林は小さな鍬、神道系の皇學館は神職が手にする笏(しゃく)でした。どう見ても鍬をもって走る三重高等農林が不利です。


そこで武田館長は、走者に負担がかからない物はないかと、伊勢神宮の神職がお祭りの時に掛ける「木綿襷」(ゆふタスキ)を思いつき、タスキを発案します。


今、駅伝といえばタスキ。その歴史はここに始まりました。
駅伝・タスキの生みの親は、皇學館館長。同大学の大學駅伝選手権に掛ける執念はここにあります。伊勢路を駆け抜ける、我が母校の紫色のタスキに熱い声援を送りました。結果は18位。地方大学でよく頑張りました。