富松神社由緒記
創建の時期については不詳ですが、正平19年(1364)から同25年(1370)の間に、大上戸(本堂川)周辺の諸寺院で写経された大般若経の奥書に「肥前国彼杵荘大村富松社」と見え、当神社名が初めて文献上に登場します。これによって南北朝の正平19年 (1364)には既に鎮座していたことが分かります。
15世紀後半、大村領主大村純伊の時代には、大村家の守護神太良山大権現(多良岳山頂鎮座)の遙拝所、すなわち「里宮」となり、領主大村氏の篤い信仰を受けます。
しかし、その2代後の大村純忠のキリシタン入信に伴い、天正2年(1574)、領内社寺がキリシタンによる焼き打ちに遭う中、当神社もその被害を受けて灰塵に帰します。
荒廃すること30年余。江戸時代に入ると、領内よりキリスト教が一掃され、従来の神社仏閣の復興策が企かられる中で、慶長年間(1596~1615)に、もとの社地に再興されました。その再興に際して、荒廃した社地に残った老松に一団の霊火が飛来したことが再興の契機になったとの伝承から、再建時から元禄年間(1688~1704) までは「飛松宮」の社号を用いています。
江戸期には、殊に藩主大村氏が藤原姓を名乗ったことから、藤原一門の祖神・奈良春日大社の御祭神「天児屋根命」を祀る社として、藩主・領民の篤い信仰を受けました。
寛永9年(1632)には佐賀・呼子沖の加部島の田島神社より、平野七右衛門が専従の神主として招かれ、その後小島家が明治の初めの頃まで、代々社家 (神主家)を務めます。
明治の神社制度により西大村地区の村社となり、大村部の一部をも含めた西大村の産土神社となりました。 昭和63年社殿改築の折、旧社殿両側に鎮座した森園天満宮と祖匠神社とを新社殿に合祀し、相殿としてお祀りしています。 古くより「とんまつさん」の名で親しまれ、現在でも鎮守の氏神様として、篤い信仰を集めています。
- 御祭神
-
天児屋根命 あめのこやねのみこと
(奈良春日大社に祀る) 健磐龍命 たけいわたつのみこと
(阿蘇神社に祀る) 伊邪那岐命 いざなぎのみこと
(夫婦神として天地創造の神) 伊耶那美命 いざなみのみこと
(夫婦神として天地創造の神) 天忍穂耳尊 ああめのおしほみみのみこと
(英彦山神宮に祀る) 神倭磐余比古命 かむやまといわれひこのみこと
(初代天皇 神武天皇) 菅原道真公 すがわらのみちざねこう
(天神様) - 合祀神社
-
祖匠神社
森園天滿宮 - 境内神社
- 市杵島神社(箕島より遷座)
- 主祭神 天児屋根命の御神徳
-
天照大神が天の岩戸に隠れられた時に岩戸の前で祝詞を奏上し、また天孫降臨に従って天降りの祭祀を司った神が、天児屋根命でした。こういった御性格から、政治(まつりごと)を司どり、知恵を育む神様としての御神徳があります。
また中臣氏、後の藤原氏の氏神として、奈良の春日大社に祀られ、藤原氏一族の篤い信仰が寄せられてきました。